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ふしみの雑文

情報学環教育部研究生という制度について

今日は、新しく入学することになった情報学環教育部研究生のガイダンスがあった。そこで教育部長の水越伸先生より、教育部研究生の制度のおこりについて面白い話を伺ったので、メモを元に起こしてみる。

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1929年、東京大学文学部の片隅で、日本中ありとあらゆる新聞を取り寄せて研究している学者がいた。

彼の名前は小野秀雄。当時、日本の大学のどこを探しても、新聞だけを研究する学者はいなかったのだが (いわゆるメディア論の起こりは早くて1950年ごろであることを考えると、かなり早い登場だ)、彼があまりに頑張って研究を続けているものだから、周りの教員たちや、財界・新聞界の名士たちも彼の研究に注目し始め、新聞研究室という組織が作られた。

ちなみに、マクルーハンの登場は1952年、最近話題になった梅棹忠夫の「文明の生態史観」「情報の文明学」は1957年である。

当初の新聞研究室は文学部・経済学部・法学部から教授が1名ずつ、さらに指導補助が1名、研究員が3名という非常に小規模なものだった。

第二次世界大戦が終わった1946年、GHQから、東京大学にジャーナリズムスクールを設立するように圧力がかかる。同時期に1949年に「新聞学研究所」が設立される。50年に、「教育部研究生」の制度が設立され、今のような形の学生の受入が始まる。

「新聞学研究所」といっても、この時点ですでに「新聞学」は単なる「newspaper」を離れた「press」という現象を広く扱っており、規定でも「新聞及び時事についての出版、放送又は映画に関する研究、並びにこれらの事業に従事し、又は従事しようとする者の指導及び養成」と明記されている。

しかし1951年、学制改革が行われ、「大学」「大学院」「研究所」という組織がきっちりと定義されることになった。「大学院」は研究者が在籍すると共に、研究者を志す学生を受け入れる組織、「研究所」は学生を受け入れない組織ときっちり規定された。

当然、「新聞学研究所」で学生を受け入れているのはおかしい、という声も上がったが、これから立ち上がろうとしていた矢先の上からの改革ということもあり、抵抗の声が上がった。結局「ケンブリッジやハーバードなどの有力な大学はすべてアメリカ建国以前から続くもので、いまの憲法の起こりより早い。だから大学のあり方が憲法や法律と少し噛み合わないところがあっても社会的には許されている。新聞学研究所も、学制改革より前からある制度なのだから良いだろう」という論理のもと、「研究所」でありながら学生を受け入れるというスタイルは貫かれた。

この結果、「新聞学研究所」は、日本に数ある「研究所」の中でも研究生として学生を受け入れている唯一の組織として残り、ジャーナリズムやメディア研究を志す学生たちを養成し続け、新聞・放送・通信・広告などのジャンルで数々の著名人を輩出した。

1992年には、新聞学研究所は社会情報研究所と名前を変え、2000年に設立された情報学環と2002年に吸収合併し、学生の受け入れは「東京大学大学院 情報学環 教育部研究生」と名前を変えて続けられた。

いまでも東京大学にある教育機関の中でも独立性が高い。また、大学院と異なり単位を取得し修了しても修士号の取得はできない。大学と大学院、研究所という研究・教育の体制からすれば「亜種」としての状態が長く続いていたが、その分、他の制度と切り離された自由度の高い運営が続けられている。

今年度より、質実剛健というテーマで制度の改革が行われ、年限ごとに最低単位取得数が設けられたほか、定員も50人から30人に削減された。

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というわけで、入学してからその教育機関の詳しい歴史を知ることができてとても面白かった。

入学するまでは、制度的にもよくわからないところ、先輩にも多様な人材が揃っていることも相まって、正直なんとなく胡散臭い印象を受けていたのだが、この説明を受けて気が変わり一気に「面白いな」と思うようになった。

今学期の履修は1コマのみなので、あまり深く関われるかどうかは分からないが…。面白そうな講義も多いので、ゆっくり頑張って修了したいと思う。

参考リンク:

旧・社会情報研究所|東京大学大学院 情報学環・学際情報学府 東京大学大学院情報学環教育部 – Wikipedia